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<視点>抑止力の意義

防衛研究所 防衛政策研究室 高橋 杉雄(たかはし すぎお) 室長

防衛研究所 防衛政策研究室 高橋 杉雄(たかはし すぎお) 室長

「守るべきもの」が攻撃されるのを予防するのが抑止力の役割です。ただし、抑止の成功にはいくつかの条件があります。まずは、「守るべきもの」が攻撃されたときに、対応してそれを実際に守り切る「能力」があること、そしてその能力を実際に使う「意図」があることです。そのうえで、その「能力」と「意図」を、攻撃を考えている側が正確に認識して、自分たちが許容可能なコストで目標を達成することはできなかったり、そもそも目標を物理的に達成できないと考えたときに抑止が成功します。

抑止が失敗するもっともシンプルな状況は、対立関係にある国々の片方が、相手の「能力」と「意図」を過小評価した場合です。特に、現状の国際秩序に挑戦する明確な意図を持っている国が、周辺国の「能力」と「意図」を過小評価し、攻撃すれば「勝てる」と思ったときに、抑止が破れる可能性が高くなります。

つまり、抑止を成功させるには、シンプルに言えば、「攻撃すれば勝てる」と思わせないことが重要だということです。ここで重要になるのが能力の強化です。十分な能力がなければ、そもそも「守るべきもの」を守ることができません。また、能力を強化すること自体が、意図を伝える効果も持つのです。

なお、抑止が破れる状況はそれだけではありません。代表的なものは、「安全保障のジレンマ」です。A国とB国の関係を考えてみましょう。どちらも現状の世界秩序に挑戦したり、相手を攻撃する意図はないのに、A国の「守るべきもの」を守るための「能力」の強化が、B国には自国の生存を脅かすものに見えるかもしれません。そして、B国も自らの安全のために「能力」を強化するかもしれません。今度はこれがA国にとって生存を脅かすものに見えてしまうかもしれません。こうなってしまうと、お互いに果てしなく能力を強化しあっていくことになってしまいます。

これが「安全保障のジレンマ」と呼ばれる状況で、このときには抑止が失敗する可能性が高まります。ただ、これはあらゆる国家間関係に当てはまるわけではありません。片方が既存の国際秩序に挑戦する意図をもって「能力」を強化している場合は、「安全保障のジレンマ」には当てはまりません。双方が元々は現状に挑戦する意図がないのに対立が深まってしまうがゆえに「ジレンマ」と呼ばれるのです。つまり、自国が重視しているのは現在の国際秩序であって、相手国の生存を脅かすような「意図」を持っていないことを認識させられれば、「安全保障のジレンマ」は避けることができます。だからこそ、自国の安全保障政策の具体的な考え方を諸外国に対して明確にし、透明性を確保することこそが、「安全保障のジレンマ」を避ける上で重要とされているのです。

現在のインド太平洋地域の国際秩序において、わが国は現状を維持する側におり、それをこれまでの行動や実績で裏付けてきています。一方で、安全保障環境は日に日に厳しさを増しています。こうした厳しい安全保障環境において、平和と安全を維持するためには、現状を守るための「能力」としての抑止力が極めて重要になっています。わが国が5年間で43兆円の防衛費を支出するとしていること、また、反撃能力を含む防衛力の抜本的強化を進めていることは、この意味で大きな意義があります。

ロシアのウクライナ侵略を見れば明らかなように、ひとたび一線を越えさせてしまうと、原状への復帰は非常に難しいのが現実です。平和を守っていくために、抑止力の役割は、これまでにないほど重要になってきているのです。

(注)本コラムは、研究者個人の立場から学術的な分析を述べたものであり、その内容は政府としての公式見解を示すものではありません。