第1章 わが国を取り巻く安全保障環境 

3 イラクをめぐる情勢など


 フセイン政権崩壊後、イラクの統治は安保理決議第1483号に従い連合暫定施政当局(CPA:Coalition Provisional Authority)を中心に進められたが、03(平成15)年7月、イラク統治評議会が発足し、昨年3月には「移行期間のための国家施政法」が制定され、同年6月末にはイラク暫定政府が発足し、CPAから統治権限が移譲された。さらに本年1月末の国民議会選挙を受けて、4月にイラク移行政府が発足するなど、イラクにおいては政治プロセスの進展に向けた努力が継続している。今後憲法制定などを経て、本年末までに恒久憲法に基づくイラク政府が発足することとされている。
 他方、03(同15)年5月、米国が主要な戦闘の終結を宣言した後も、米軍などに対するテロなどがイラク中部のいわゆるスンニ・トライアングル1を中心に継続し、イラクの治安情勢は全般的に予断を許さない状況が継続している。今後の政治プロセスの進展や経済復興には治安の安定化が欠かせないことから、米軍はスンニ・トライアングルを中心に掃討作戦を行っている。

(1)統治権限移譲後の治安情勢
 昨年6月28日にCPAよりイラク暫定政府に統治権限が移譲された後も、多国籍軍やイラク治安部隊などに対するテロなどがイラク中部のいわゆるスンニ・トライアングル及び北部地域の一部を中心に発生し、イラクの治安情勢は、脅威の度合いは地域により異なるものの、全般的に予断を許さない状況が継続している。この背景としては、フセイン政権の残存勢力や国外から流入していると見られるイスラム過激派などが、イラク暫定政府による統治や多国籍軍による治安維持の失敗を内外に印象付けるとともに、イラク国内を混乱させ、国民議会選挙の実施を含む一連の政治プロセスを妨げる目的で活動を活発化させていることなどがあるとみられている。
 特に、バグダッド西方の都市ファルージャにおいては、昨年春の武装勢力と米軍の衝突後、イラク人活動部隊が米軍と協力しつつ治安維持に当たることとされ、事態は一時的に沈静化した。しかし、武装勢力による活動が再び活発化し、米軍やイラク治安部隊との衝突が継続した。また、バグダッドにおいては、昨年夏以降も米軍やイラク治安部隊への攻撃が続いたほか、本年1月の国民議会選挙の前後には、イラク暫定政府高官や政党幹部に対するテロなども頻繁に発生した。今後は、宗派対立や民族対立をあおることにより憲法制定をはじめとする政治プロセスの進展を妨げることを目的として、武装勢力がテロなどを引き起こす可能性も排除されず、引き続き注視することが必要である。
 このほか、昨年8月には、中南部のナジャフを中心にイラク各地で、シーア派の急進的な指導者であるムクタダ・サドル師の支持者が多国籍軍やイラク治安部隊と衝突する事態が生起した。同月末、ナジャフでの衝突はシスターニ師の仲裁により沈静化したが、その後もバグダッドのサドルシティーと呼ばれる地域で米軍とサドル師支持者との衝突は継続した。しかし、昨年10月にイラク暫定政府と同支持者が停戦合意に達し、武器・金銭交換プログラムが実施されてからは、サドル師支持者に目立った動きは見られない。

(2)イラク治安部隊及び多国籍軍による掃討作戦
 イラク暫定政府は、統治権限移譲後、治安情勢の改善のため、イラク治安部隊の増強、国家治安維持令の公布、恩赦の決定など様々な措置を講じてきた。昨年11月には、国民議会選挙に向けた治安の改善のため、クルド地域を除くイラク全土に非常事態宣言2を発出するとともに、多くの武装勢力の拠点と見られたファルージャにおいて、米軍とともに本格的な掃討作戦を行った。この結果、ファルージャでは多くの武装勢力の要員が拘束されるとともに、隠れ家や武器貯蔵庫が発見されるなど、武装勢力は少なからぬ打撃を受けた。しかし、一部の武装勢力はその勢力を減らしつつも、他の地域を拠点として引き続き多国籍軍やイラク治安部隊などへの攻撃を継続している。イラク北部のモスルには、そうした武装勢力の多くが流入したと見られており、ファルージャでの掃討作戦開始後ほどなく、モスルでも掃討作戦が開始された。その後も、多国籍軍及びイラク治安部隊はスンニ・トライアングルや北部などにおいて武装勢力への攻勢を続けている。また、本年1月に国民議会選挙が実施され、民主的なプロセスにより移行政府が発足した結果、武装勢力がイラク国民の支持を獲得しにくい環境が整いつつある。しかし、国民議会選挙後も武装勢力による攻撃は発生しており、イラクの治安情勢は依然として予断を許さない。

(3)南東部ムサンナー県の治安情勢
 陸上自衛隊(陸自)が人道復興支援活動などを実施しているイラク南東部のムサンナー県については、イラクの他の地域と比べ比較的安定している状況が継続しており、本年1月の国民議会選挙に際しても、選挙妨害と見られる特段の事案もなく、粛々と選挙が行われた。
 しかし、これまでにサマーワの陸自宿営地周辺で砲弾発射事案が計10回(昨年4月2件、8月4件、10月2件、本年1月1件、7月1件:本年7月5日現在)発生している。これらの事案が生起したときの前後の情勢、犯行の態様、規模、状況などから判断すると、現在、イラクの他の地域で見られるような、ある程度の規模を有する勢力による組織的な攻撃である可能性は小さいと考えられる。最近では、ムサンナー県における多国籍軍への攻撃事案はほとんど発生していないものの、例えばサマーワ市内で簡易爆弾(IED:Improvised Explosive Device)の爆発により陸自車両が破損する事案が発生するなど、今後も同県でテロなどが発生する可能性は否定できない。
 ムサンナー県においては、オランダ軍がイラク警察とともに治安維持に当たってきたが、オランダ軍の撤退に伴い、本年3月より、英国軍が同県の治安維持を担当している。英国軍はオランダ軍と同等の治安維持能力を有していること、また、オランダ軍の教育訓練などによりイラク警察などの能力が向上していることから、同県の治安情勢には特段の変化は生じていない。また、本年2月、オーストラリア政府が、従来のイラク復興のための貢献に加えて、ムサンナー県に部隊を派遣するとの決定を行った。オーストラリア軍は、同年5月にムサンナー県への展開を終えて、英国軍とともに同県の治安維持及びイラク治安部隊の訓練に当たっている。

(4)政治プロセスの進展
 昨年6月28日にCPAからイラク暫定政府に統治権限が移譲された後も、「移行期間のための国家施政法」で定められた政治プロセスは着実に進められた。同年8月には、国民会議が開催され、暫定国民評議会議員が選出された。その後、イラク暫定政府は、本年1月末までに行われることとされた国民議会選挙に向けて、治安回復のための努力を継続する一方、昨年11月より有権者登録を開始するなど具体的な選挙準備を推進した。その結果、本年1月30日、国民議会選挙が予定どおり行われた3。一部の地域ではテロなどが発生したものの、本選挙は大きな混乱もなく多くのイラク国民が投票にむかったことから、平和で安定したイラクの民主化に向けた重要な一歩として評価できる。同年3月には国民議会が開催され、4月にイラク移行政府が発足した。現在、イラク移行政府は、同年8月15日までに憲法草案を起草するため、各般の努力を進めている4。「移行期間のための国家施政法」では、憲法草案が起草された後、10月15日までに憲法草案に関する国民投票が実施され、12月半ばまでに恒久憲法に基づく国民議会選挙が行われ、本年末までに恒久憲法に基づくイラク正式政府が発足することとされている。

 
イラクの政治プロセス

(5)復興に向けた国際社会の取組
 イラクの復興は、イラク暫定政府及びイラク移行政府を中心に行われているが、各国も二国間の支援や部隊派遣などを通じて復興に協力している。本年5月末の時点で、イラク国内には約13万8,000名の米軍を含め26か国の部隊などが展開し、治安維持や復興支援に当たっている。米軍は主としてバグダッドとイラク北部・西部に展開し、イラク中南部にはポーランドを中心とする多国籍師団(中南部)(MND(CS):Multinational Division(Central South))が展開し、ウクライナ、ブルガリアなどがこれに参加している。イラク南東部には、英国を中心とする多国籍師団(南東部)(MND(SE):Multinational Division(South East))が展開し、イタリア、デンマークなどがこれに参加している。陸自が人道復興支援活動などを行っているムサンナー県の治安維持は、これまでオランダ軍が担当していたが、オランダ軍の撤退に伴い、同年3月より英国軍が担当している。また、ムサンナー県においては、同年5月より、オーストラリア軍が展開し、イラク治安部隊の訓練などを行っている。
 多国籍軍の任務については、同年1月の国民議会選挙を前後して、武装勢力との直接戦闘からイラク治安部隊の能力強化にその重点が移りつつある。国民議会選挙が実施された際、イラク治安部隊は治安の維持に主要な役割を果たし、その治安維持能力は各国などからも評価された。しかし、イラク治安部隊が単独でイラクの治安と安定を維持できるようになるには、もうしばらく時間を要するとされている。そのため、多国籍軍などが治安部隊の教育訓練などを引き続き実施することになると見込まれる5
 なお、各国は、それぞれの事情に応じて様々な規模、任務によりイラクの復興に向けた活動を継続している。派遣予定期間の終了や財政的制約により撤収した国や政策の変更により撤退を決定した国もある一方、多くの国は引き続き、イラクへの部隊派遣の継続を表明している。

 
イラクに部隊を派遣している各国の主な派遣地域

 
訓練中のイラク治安部隊〔米国防相〕


 
1)首都バグダッド、西部のラマーディ、北部のティクリート(サダム・フセインの生地)を結ぶ三角形を中心とした地域で、イスラム教スンニ派の住民が多く、旧フセイン政権を支持する者が多いとされている。

 
2)アラウィ暫定政府首相は、非常事態宣言の具体的内容として、1)11月8日午後6時より、ファルージャ及びラマーディに外出禁止令を発令する。2)バグダッド国際空港を8日夕から48時間閉鎖する。3)シリア及びヨルダンとの国境を封鎖し、食料運搬車両以外の通行を禁止するなどの措置をとったと記者会見において発言した(04年11月8日)。なお、自衛隊が展開するムサンナー県においては、非常事態宣言を受けて、治安維持のために何らかの具体的措置がとられたとの情報はない。

 
3)本年2月17日のイラク独立選挙管理委員会の最終発表によれば、投票率は58%で、1位はシーア派「統一イラク同盟」で140議席、2位は「クルド同盟リスト」で75議席、3位は暫定政府のアラウィ首相率いる「イラク・リスト」で40議席、4位が暫定政府ヤーウェル大統領率いる「イラク人党」で5議席

 
4)ただし「移行期間のためのイラク国家施政法」では、必要ならば、国民議会議長は、国民議会議員過半数の同意の下、本年8月1日以前に大統領評議会に対し、恒久憲法起草のための期間延長が必要である旨認定することができ、大統領評議会は、これを受けて、恒久憲法草案の起草を6か月間のみ延長することができるとされている。

 
5)多国籍軍によるイラク治安部隊の支援に加えて、NATOは、昨年7月にイラク治安組織を訓練するためのNATO訓練実施ミッションを設立し、同年8月よりイラク国内での活動を開始している。本年5月末現在、約110名がイラク治安組織に対する訓練をしている。


 

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