第II部 わが国の防衛政策の基本 

1 防衛省・自衛隊の歩み

1 防衛庁・自衛隊発足から冷戦終結まで

 45(昭和20)年8月、わが国はポツダム宣言を受諾し、その諸条件を履行することとなった。その後、わが国は連合国軍による占領の下、旧陸海軍を解体し、再建と主権の回復にむけて努力を続けていった。一方で、米ソなどの東西冷戦の顕在化、朝鮮半島の分断、中国とソ連の友好同盟相互援助条約の締結などを背景とし、50(同25)年に朝鮮戦争が勃発した。これに伴い、在日米軍の主力が国連軍として朝鮮半島に展開する事態となったことから、国内の治安維持を図るため、政府は、同年8月警察予備隊を創設した。
 51(同26)年には、対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌52(同27)年4月28日、わが国は主権を回復し、独立国家として国際社会に復帰した。しかし、自国の防衛については、日米安保条約により米国軍隊の駐留を認め、直接侵略に対する防衛は米軍に依存することとした。そして、主権回復約3か月後の同年8月、警察予備隊と海上警備隊(同年4月海上保安庁の組織として発足)をあわせて保安庁を設置したが、これも警察予備隊と同様に国内の治安維持のため一般警察力を補うことがその目的であり、わが国の防衛を担当する組織を確立するには至らなかった。
 53(同28)年5月に、米国が、日本に対し相互安全保障法(MSA:Mutual Security Act)に基づく経済援助、武器援助を考慮していることが明らかになった。政府はこのMSAの受け入れを決定したが、MSA協定を締結するにあたっては、自ら防衛努力を行うことがその条件となっていたため、保安隊の増強問題が日米間の交渉の焦点になった。この問題について同年9月、吉田茂総理(自由党総裁)と重光葵(しげみつまもる)改進党総裁(当時野党)が会談し、長期防衛力整備計画の作成と、保安庁法を改正し保安隊を自衛隊に改め、直接侵略に対する防衛をその任務に付け加える方針で合意した。
 この政治的決断を受けて、政府はMSA交渉のため、米国へ池田勇人自由党政務調査会長を特使として派遣し、ロバートソン国務次官補と会談を行った(池田・ロバートソン会談)。日本の防衛力(日本側主張18万人、米国側主張32万5,000人)についての交渉は難航したが、米国側が防衛力増強にかかわる日本側の制約について認識したこともあり、翌54(同29)年3月、MSA協定は調印された。
 一方、吉田・重光会談を契機に保守3党(自由党、改進党、日本自由党)は何度となく折衝を行い、54(同29)年3月には、防衛庁設置法案と自衛隊法案のいわゆる防衛2法案が閣議決定され、同年6月2日国会で成立し、同年7月1日に施行されるに至った。こうして、戦後初めてわが国に対する武力攻撃に際し、わが国を防衛することを任務とする組織が誕生したのである。

 
防衛庁開庁記念式典(昭和29年)
 
自衛隊旗・自衛艦旗制定(昭和29年)
 
自衛隊中央観閲式の後、銀座をパレードする装甲車両群(昭和33年)
 
国会前を埋めた安保反対闘争のデモ隊(昭和35年)
 
旧塗装(初期塗装)で飛行中の初期の空自ブルーインパルス(昭和35年)

 こうした発足の経緯から、当時の防衛庁は組織も小さく、装備品のほとんどは米国からの供与または貸与という状況であった。主な任務は、ゼロから防衛力を構築することであり、防衛力整備や人事管理を行うことであった。
 冷戦期の自衛隊は、万一の侵略に備えた「抑止」との意味で、その存在自体に意義があった。冷戦終結に至るまで、防衛庁は、自衛隊を実際に動かすよりも、抑止力として「存在する自衛隊」を管理することに業務の主眼が置かれてきた。
 国会において、与野党間で自衛隊の合憲性について論議される時代背景においても、自衛隊員は使命感に燃え、実直に勤務を続けた。発足から冷戦終結に至るまで、防衛庁・自衛隊は、多くの先達の識見と努力の積み重ねによって複雑な環境や条件を克服し、国民の理解と支持を深めていった。
 このような努力により防衛庁・自衛隊は着実に基盤的な防衛力を整えていくこととなるが、日米安保体制の下で自衛隊の出動に至るような安全保障上の危機に直面しなかった。
 
バッジ・システムのデータスクリーン
 
函館空港に強行着陸したソ連戦闘機MiG-25(昭和51年)
 
儀仗隊を巡閲するレーガン米大統領(昭和58年)
 
日航機墜落事故に伴う災害派遣(昭和60年)

 

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