第5章 国際的な安全保障環境の改善 

(VOICE)パキスタン等大地震に際しての国際緊急援助活動に従事した隊員などの声(陸自)
 
パキスタン国際緊急援助隊 3等陸佐 村西正敏(むらにしまさとし)(現所属:第2飛行隊)
イスラマバードヘリポートで、調整を行う村西3等陸佐

 昨年のパキスタン等大地震に際しての国際緊急援助活動に従事した村西3佐に、現地での苦労話などについて、聞きました。

 私は、部隊の派遣に先立って、先遣隊として現地入りし、現地の状況を把握しつつ、本隊を受け入れる準備を行いました。当初計画していたチャクララ空軍基地は、各国から運ばれる支援物資などで混雑しており、ヘリコプターの組み立て場所の確保、さらには航空燃料の調達要領等の調整などがあり、本隊受け入れまでの2日間は休む間もなく走り回りました。その後、パキスタン政府からの申し出があり、イスラマバード・ヘリポートを拠点として活動することになりました。
 本隊が到着した後は、国際協力機構(JICA)や国際移住機関(IOM)のみなさんの協力などによって現地のニーズを把握し、パキスタン軍や他国の部隊、現地大使館との調整会議を行って、翌日の飛行計画を立てました。その結果、非常に効率的な支援を実施することができました。
 物資の空輸にあたっては、イスラマバード周辺は砂塵等によって視程が数キロメートルと悪く、目視だけでは現在位置や、他の航空機の位置を把握することが難しいため、機外の見張りには十分に気を付けました。また、標高2,000m級の山岳が続く地帯を安全に飛行するために、携帯用GPSを活用し、さらに、機体のトラブルや天候急変などへ備えるために、衛星携帯電話などを用意して緊急時の通信手段を確保しました。
 山間部のヘリポートに物資を初めて空輸したときのことですが、ご老人が操縦席に近寄ってきて、日本語で「アリガトウ」と言って握手を求めてきました。被災地住民からの感謝の思いを、身をもって感じるとともに、我々の援助を必要としている被災者のために、「明日から毎日来なければ」と思いました。また、山の上や人里離れた渓谷に、我々が運んだテントが、次々に張られていくのを見て、改めて任務のやりがいを感じました。

 現地で、自衛隊と協力して支援活動を行った国際協力機構(JICA)の高木さんと、国際移住機関(IOM)浜田さんに隊員の活躍ぶりなどについて聞いてみました。
 
JICA 駒ヶ根青年海外協力隊訓練所勤務 高木美智代(たかぎみちよ)さん
JICAの高木さん

 日本がパキスタンの緊急事態に資金や物資だけでなく、援助部隊を派遣したことは被災地にとって大きな助けになりました。私は、現地案内をはじめ、現地語(ウルドゥー語)による通訳をしたり、イスラム教のタブーや習慣、交渉の仕方といったアドバイスを行ったりして、自衛隊による国際緊急援助部隊のサポート役を務めました。ちょうど、イスラムの断食月(ラマダン)だったこともあり、日の入りの時刻には仕事が滞るなど業務から生活面までさまざまな制約もありました。また各国から寄せられた援助物資の中には、現地の生活習慣に合わないものが混在するなど、問題も起きていました。そのような中で日本の自衛隊の皆さんは現地の生活習慣を尊重しながら、必要なものが必要な場所に届く方策をとるなどパキスタン人の立場に立った活動を心掛けていました。私はパキスタン人と日本人の架け橋としてその任務の一端に携わることが出来たことを誇りに思います。
 
IOM パキスタン事務所勤務 浜田祐子(はまだゆうこ)さん
IOMの浜田さん

 自衛隊のみなさんとは、調整ミーティングを日常的に行い、被災者のニーズ、天候、道路状態などについての情報を交換しました。こうした調整の結果、自衛隊がヘリコプターで物資を輸送し、我々がパキスタン軍の支援のもと配布を調整するなどの作業分担をおこなって、より早く、効果的に救助物資を配布することができました。
 昨年の11月には自衛隊と一緒に被災地のテント村を訪問して、就寝マットや貯水タンク、テントなどの物資を提供しましたが、その際に自衛隊はアライ地区バナの学校を訪れ、子どもたちに尺八の演奏を披露して、現地の子供たちから喜ばれていました。また、被災者の方々は、「道路が閉鎖され、全く援助を得られなかった時に、日本のみなさんが駆け付けてくれた」「自衛隊のヘリだけは、毎日2便から4便、ほとんど一日も欠かさず援助物資を届けてくれた」などと感謝をしていました。

 

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