第1章 わが国を取り巻く安全保障環境 

3 イラクをめぐる情勢など


(1)イラク移行政府発足後の治安情勢
 昨年4月にイラク移行政府が発足した後も、多国籍軍やイラク治安部隊などに対するテロなどがいわゆるスンニ・トライアングル1および北部地域の一部を中心に発生している。イラクの治安情勢は、脅威の度合いは地域により異なるものの、全般的に予断を許さない状況が継続している。この背景としては、フセイン政権の残存勢力や国外から流入していると見られるイスラム過激派などが、イラク政府による統治や多国籍軍による治安維持の失敗を内外に印象付けるとともに、宗派対立や民族対立をあおることにより政治的混乱を引き起こすため、テロなどを継続していることなどがあるとみられている。
 こうしたテロなどについては、スンニ・トライアングルなどに限定される傾向がみられるものの、簡易爆弾(IED:Improvised Explosive Device)による多国籍軍などへの攻撃、車両爆弾(VBIED:Vehicle-Borne Improvised Explosive Device)による民間人への攻撃など、依然としてさまざまな事件が発生している。また、本年2月にイラク中部のサマラで発生したシーア派の聖廟爆破事件を契機として、宗派対立に起因すると考えられる事件がイラク各地で発生した。このため、イラク移行政府は、バグダッドおよびその周辺において外出禁止令を出すなど、治安の回復に努めた。この結果、事態は沈静化したものの、宗派対立や民族対立をあおることを目的としたテロなどが起きる可能性はイラク新政府の発足後も排除されず、イラクの治安情勢については、引き続き注視する必要がある。

(2)イラク治安部隊および多国籍軍による治安対策
 イラク政府は、昨年春以降、武装勢力の掃討や武器貯蔵庫の摘発などのために、多国籍軍とともにバグダッドなどにおける治安作戦を実施している。特に、武装勢力の活動拠点とみられるユーフラテス川流域やイラク北部のタル・アファルなどにおいては、比較的規模の大きな武装勢力の掃討作戦が、イラク治安部隊などにより継続的に行われている。
 本年6月、多国籍軍の空爆により、多くのテロに関与してきたアブ・ムサブ・ザルカウイが死亡したのもこうした取り組みの成果といえる。
 多国籍軍も、イラク政府による治安回復に向けた努力を支援するため、治安対策のみならず、政治、経済面での支援強化を含む総合的な取り組みを実施している。昨年11月、米国が発表した「イラクにおける勝利のための国家戦略」は、武装勢力を含め、より多くのイラク国民に政治プロセスへの参加を促す一方、政治参加の意思がないイスラム過激派などが拠点とする地域においてはイラク治安部隊とともに掃討作戦を行った後、復興支援とイラク治安部隊の常駐により秩序回復を図ることとしている。こうした戦略を実施するため、多国籍軍は、治安維持任務を遂行できるだけの能力を備えたイラク治安部隊を増強することに主眼を置いている。
 多国籍軍からイラク治安部隊への治安権限移譲については、昨年夏より、イラク政府関係者および多国籍軍関係者で構成される治安権限移譲合同委員会2で、権限移譲のための条件などについて議論が行われている。多国籍軍の活動に関する基本的な考え方は、イラク治安部隊が単独で治安維持活動を実施できるようになるまで多国籍軍の任務は必要であり、逆に、イラク治安部隊の能力が育成されれば、多国籍軍の活動は終了するというものである。したがって、多国籍軍は、その活動を終了させる時期を、あらかじめ設定することはできないとしている。ただし、政治状況やイラク治安部隊の能力向上など、現地情勢が改善した場合には、多国籍軍の兵力規模は変更されることになると見込まれる。

(3)南東部ムサンナー県の治安情勢
 陸上自衛隊が人道復興支援活動などを実施していたイラク南東部のムサンナー県については、イラクのほかの地域と比べ比較的安定している状況が継続しており、昨年10月の憲法草案の国民投票や同年12月の国民議会選挙に際しても、選挙妨害と見られる特段の事案もなく、粛々と選挙が実施された。
 しかし、これまでにサマーワの陸上自衛隊宿営地周辺で砲弾発射事案が計13回(04年4月2件、8月4件、10月2件、昨年1月1件、7月1件、11月1件、12月1件、本年3月1件:本年6月末現在)発生している。また、昨年6月には、サマーワ市内でIEDの爆発により陸自車両が破損する事案が発生している。最近では、ムサンナー県における多国籍軍への攻撃事案はほとんど発生していないが、今後も、同県でテロなどが発生する可能性は否定できない。
 ムサンナー県においては、昨年3月より、オランダ軍に代わり、英国軍が同県の治安維持を担当してきた。また、昨年5月から、オーストラリア軍も英国軍とともに同県の治安維持およびイラク治安部隊の訓練にあたってきた。ムサンナー県のイラク治安部隊は、英豪軍の支援を受けつつ、昨年実施された3回の国民議会選挙および国民投票を大きな混乱なく成功裡に終了させるなど、その治安維持能力を順調に向上させている。本年6月のイラク政府の決定により、ムサンナー県が治安権限の移譲が行われる最初の県となったことは、現地における多国籍軍の努力が成果を上げたことを示している。

(4)政治プロセスの進展
 イラクの政治プロセスは、昨年4月にイラク移行政府が発足した後も、おおむね順調に進められた。同年5月、憲法起草委員会が国民議会で設置された後、憲法起草作業が精力的に進められ、同年1月の国民議会選挙をボイコットしたスンニ派の意向も憲法草案に反映する努力が続けられた。こうしたプロセスを経て起草された憲法草案は、同年10月の国民投票において承認された3。同年12月に実施された国民議会選挙は、治安面での混乱もなく、スンニ派を含む多くのイラク国民が投票するなど、成功裡に終了した4。その後、スンニ派を含めた幅広い政治勢力が参加する新政府を発足させるための努力が続けられた結果、本年5月にイラク新政府が発足し、国連安保理決議第1546号などで定められた政治プロセスが完了したことになる。イラクは、治安の回復をはじめとして依然困難な課題を抱えているものの、国民融和の下で民主的で安定的な国家を構築する努力を継続している。
 
図表1-1-2 イラクの政治プロセス

(5)復興に向けた国際社会の取組
 イラクの復興は、イラク政府を中心に行われているが、各国も、二国間の支援や部隊派遣などを通じて復興に協力している。本年6月末の時点で、イラク国内には約13万3,000名の米軍を含め28か国の部隊などが展開し、治安維持や復興支援にあたっている。米軍は主としてバグダッドとイラク北部・西部に展開し、イラク中南部にはポーランドを中心とする多国籍師団(中南部)(MND:Multinational Division(CS:Center South))が展開している。イラク南東部には、英国を中心とする多国籍師団(南東部)(MND:Multinational Division(SE:South East))が展開している。
 多国籍軍の任務については、昨年初めより、武装勢力との直接戦闘からイラク治安部隊の能力強化にその重点が移っている。イラク治安部隊は、昨年実施された3回の国民議会選挙および国民投票の際、治安維持に主要な役割を果たすなど、その治安維持能力を向上させており、その部隊規模、担当地域についても着実に拡大している。しかし、イラク治安部隊が単独でイラクの治安と安定を維持できるようになるには、もうしばらく時間を要するとされている。そのため、多国籍軍などが治安部隊の教育訓練などを引き続き実施することになると見込まれる。
 
図表1-1-3 イラクに部隊を派遣している各国の主な派遣地域
 
図表1-1-4 イラク治安部隊の整備計画


 
1)首都バグダッド、西部のラマーディ、北部のティクリート(サダム・フセインの生地)を結ぶ三角形を中心とした地域で、イスラム教スンニ派の住民が多く、旧フセイン政権を支持する者が多いとされている。

 
2)昨年8月に設立された治安権限移譲合同委員会は、イラク移行政府の内務大臣、国防大臣、治安担当顧問、駐イラク米大使、駐イラク英大使、ケーシー・イラク多国籍軍司令官などにより構成され、多国籍軍からイラク治安部隊に対する権限移譲の条件について随時議論を行っている。なお、米国防省は、治安権限移譲にあたって、1)現地の治安情勢、2)イラク治安部隊の能力、3)イラクの関係政府機関の能力、4)イラク治安部隊に対する多国籍軍の支援能力などを地域や都市ごとに評価することになるとしている。

 
3)昨年10月25日のイラク独立選挙管理委員会の記者会見によれば、投票者の8割近くが賛成票を投じ、また、反対票が3分の2を上回った県も2県にとどまったことから、憲法草案は承認された。

 
4)本年2月10日のイラク独立選挙管理委員会の最終発表によれば、全275議席のうち、1位のシーア派「統一イラク同盟」が128議席、2位の「クルド同盟リスト」が53議席、3位のスンニ派「イラク合意戦線」が44議席、4位のアラウィ前首相率いる世俗系「イラク国民リスト」が25議席、5位のスンニ派「国民対話イラク戦線」が11議席を占めている。


 

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