第3章 新たな脅威や多様な事態への実効的な対応と本格的な侵略事態への備え 

人道的な自衛隊の姿に接して

 新潟県中越地震の発生に際し、山古志村村長(当時)として陣頭指揮をとって対処に当たり、また現在は、長岡市復興管理監として復興現場の最前線で活躍されている長島忠美氏に、震災当時の状況などについて寄稿をお願いしました。

 
長岡市復興管理監 長島忠美 氏

 平成16年10月23日午後5時56分。悪夢のような大きな地震が、私たちのふる里を襲いました。特に山古志では、道路、電気、電話といったすべてのインフラが失われてしまい、外部からも孤立。そして、14ある集落のすべてがそれぞれ孤立してしまう事態に陥りました。
 携帯電話の電波塔すら被害を受け、大切な情報網からも孤立をしてしまうことになりました。何とか住民のために情報を集めて発信しなければという焦りの中にいたと思います。やっと少し、県庁や外の職員と連絡が取れ始めたのは夜半を過ぎていました。夜、歩いて役場に向かいましたが、それすらも断念せざるを得ない状況でした。
 夜が白み始めて目にした光景は、あまりにも悲しいものでした。愛するふる里が悲しく姿を変えていました。あるべき道路がありません。あるべき棚田が大きく崩れ落ちていました。
 絶えず続く大きな余震。音が先にやってくる地震を私たちは経験したことがありませんでした。不安の極限にいたと思います。何とか弱い携帯電話の電波を通じて知事と話ができたのは朝を迎えてからでした。知事から「何が必要ですか。」と聞かれました。私が「村は壊滅的な被害を受けました。自衛隊の出動をお願いしたい。」と答えたところで電話が切れました。
 道のない道を歩いてヘリポートになる山古志中学校に着き、そこから見える光景に絶望さえ感じました。あるべき山が頂から崩れ落ち、住宅を飲み込んでいました。川が土砂によって大きく流れを変えていました。中学校の校庭に避難をしていた住民と、ヘリコプターが降りられるように準備をして、まもなく1機の自衛隊のヘリコプターが到着しました。2名の自衛隊員が無線機を持ってきてくれました。それを通じて、状況が把握できていないまま、ただ甚大な被害により住民の命すら心配な状況だけを話して出動を依頼しました。やがて連隊長を先頭にした部隊が到着し、連隊長から「新発田30連隊今金連隊長です。何が最初に必要ですか。」と落ち着いた口調で話しかけられました。私はあわてていました。けが人も村の状況も分からない。そのことが知りたいとお願いをしました。でもその時点で各集落でけが人が出ていることが予測されました。まずその搬出を第一に優先してもらいました。
 昼にかけ、自衛隊のヘリコプターからもたらされる情報は村の悲惨な状況でした。私は住民の命の危険を感じ、そして命を守ることを一番に選択せざるを得ないところにいました。苦渋の時間が過ぎ、午後1時過ぎ「山古志村は全村民を村外に避難させたい。ご協力をお願いしたい。」と、連隊長に依頼をしました。それから正味26時間。私は奇跡的な活動で住民を救ってくれたと感謝しています。夜間のヘリコプター運行が危険であることは知っていました。でも救援を待つ住民がパニックに陥っていました。ありえないと思った夜間の救出作戦。それも「着陸できないかもわかりません。できても1回だけです。」という約束でした。しかし、困難に立ち向かって1機に住民を乗せてもらったあと、「できるだけ燃料の続く限りやってみましょう。」という言葉が返ってきました。あんな難しい状況の中で国民の安全のため勇気と優しさが持てる自衛隊の姿に私は感動を覚え、深い感謝の念を抱きました。そしてその人道的な勇気を考えると今でも涙がこぼれます。誰がなんと言おうと日本の国には自衛隊が必要だとそのときほど実感したことはありません。
 避難をしてからもずっと、人が人を思うそのことのためにそばにいてくれたこと、あの迷彩服の姿が私たちに大きな安心を届けてくれました。私たちがいるから大丈夫ですよ。そう語りかけてくれているように感じたのは私だけではないと思います。
 食事もとらないで頑張ってくれているのを見て「食べたのですか?」と声をかけると決まって、「大丈夫です。私たちは食べましたから。」と答えてくれたことを知っています。夜、何気ない顔をしながら私たちを見守ってくれたことを私は知っています。
 自衛隊の皆さんから私たちは勇気をもらいました。そして、人が人を信ずる大切さを学んだ気がします。皆さんから伝えられた人が人を守る、支え合う、そんな気持ちを大切に復興に取り組んでいきます。
 日本の国が平和でありますように、自衛隊の皆さんが健康でいられますように、心から願っています。

長岡市復興管理監 長島忠美

 

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