第5章 国民と防衛 


隊員の現場の姿 南海の小島・硫黄島における勤務

硫黄島航空基地隊 海士長  地海(ちうみ) 秀一(29才)

 入隊して早10年が過ぎました。私は、富山県新湊市の出身です。小さいときから日々様々な表情と潮風を運んでくれる日本海を見ながら育ちました。その影響もあり、海にかかわる仕事をしたいという思いで、現在海上自衛隊で勤務しています。
 私の仕事は、海上航空部隊において回転翼(ヘリコプター)の機体整備を担当する整備員です。平成12年10月から硫黄島に新配備となった救難ヘリUH-60Jの整備員として同年9月から勤務しています。
 硫黄島は東京から1,250km南方に位置し、広さは22km2(品川区とほぼ同じ)であり、ご存知のように、昭和20年2月、日米合わせて8万人を超える将兵が激戦を繰り広げ、約2万人の日本兵が玉砕された島でもあります。
 硫黄島救難飛行隊は、UH-60J型航空機2機を運用し常時即応態勢を維持しています。特に、小笠原諸島(父島、母島)と洋上における船舶からの急患輸送などの災害派遣を、月に2〜3回実施しています。
 私が所属する救難飛行隊整備班の任務は、航空機の修理や、年間1,800機を越える外来機支援の他にいろいろな作業があります。
 私は、日々の航空機整備において人一倍気をつかい、不具合個所を見逃すことのないよう心掛けています。
 また、硫黄島におけるいろいろな作業として、重量物を輸送艦から陸揚げする補給作業、航空燃料などをタンカーからフローティングホースで陸揚げする揚油作業、遺骨収集、草刈ごみ収集などがあります。その中でも毎年2回行われている遺骨収集に対する支援は隊員にとっても重要な作業です。地熱により60度を超えた壕の中で、我々自衛官も汗だくになりながら交代で壕内やトーチカ内の土を掘出して遺骨収集のお手伝いをしています。昨年12月の遺骨収集においては、57柱の御遺骨を収集できましたが、なんともいえない悲しい思いをしました。
 そうした勤務の中での私の楽しみは、在島記念アルバムを作成することです。デジカメを片手に、日、米の飛来する各種外来機の撮影や島内の草花の探索をしたり、海岸めぐりをかねたジョギングを楽しんだりして、アルバムの量はかなりのボリュームになりました。また硫黄島は、日本各地からの勤務者がいるので夜は田舎自慢、方言、特産物などの談義に花が咲き、知らず知らずのうちに友好を深めることができるのも楽しみの一つです。
 この2年半の勤務の中で最も嬉しかったこと、それは、急病などで輸送された方々から寄せられる感謝の手紙です。心温まる感謝の言葉を目にしたとき、何にも代えがたい嬉しい気持ちで一杯になります。私たち整備員が、確実なる整備を行い、その航空機が、任務を遂行する。この喜びを胸に今後、日々の勤務の中でより一層、整備員としての信頼が得られるように、また、国民の皆さまから信頼を得る自衛官として活躍できるように勤務していきたいと考えます。

 
壕内で遺骨収集に従事する筆者(硫黄島)


 

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