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第I部 わが国を取り巻く安全保障環境

第5節 新型コロナウイルス感染症をめぐる動向

19(令和元)年末以降中国で発生した新型コロナウイルス感染症は、国際社会が連携して対応すべき課題となっている。同感染症がもたらす課題は、単なる衛生上の問題にとどまらず、各国の社会経済全般に及んでいる。各国は、相互依存性が高まったグローバルな国際社会の中で、外出制限や企業活動の停止・縮小などの対応を迫られ、サプライチェーンの脆弱性や地域経済への深刻な影響が露呈するなど多くの人々の日常生活に多大な影響が生じている。世界経済の停滞長期化が懸念される中、各国は、社会経済活動の再開に向けて、医療機関とともに軍の衛生機能や輸送力、施設なども活用して自国の同感染症への対応に努め、国際的な感染拡大の防止にも貢献している一方、軍の中でも感染者が発生し、訓練や共同演習の中止・延期を余儀なくされるなど、軍事活動などにも様々な影響・制約をもたらしている。

世界で初めて新型コロナウイルスの大規模かつ急速な感染拡大が確認された中国は、20(令和2)年1月末以降、習近平総書記による軍の積極的な貢献に関する重要指示などのもと、軍による新型コロナウイルス感染症への対処が本格化した。同年2月2日には、感染拡大の中心とされる武漢において、約10日間で建設された「火神山病院」が軍の後方支援任務を専門とする聯勤保障部隊に引き渡された。聯勤保障部隊は同感染症への対処において軍の中核としての役割を担い、仮設病院の運営、治療、支援物資の輸送などに従事した。また、空軍のY-20大型輸送機を災害救援任務に初めて投入したとされるなど、聯勤保障部隊のみならず陸軍、海軍、空軍、ロケット軍及び戦略支援部隊なども対処に当たったとされている。なお、民兵や国防動員により徴用された人員も同感染症への対応に従事し、市民の体温計測や車両の消毒のほか企業活動の補助などを行った。3月10日、武漢を視察した習近平総書記は、感染の拡大の勢いは抑えられたと述べた。

中国は、国内の感染拡大は基本的に抑え込んだと認識しているとみられ、国内においては、軍事科学院軍事医学研究院が他国に先駆けて新型コロナウイルスワクチンの第2段階の臨床試験に入ると宣言するなどの動きがある。また、国際社会においても、感染が拡大している国々に対する医療専門家の派遣や医療物資の提供などを積極的に行い、新型コロナウイルス感染症対策において主導的な役割を担おうとする姿勢が窺われる。他方、今般の新型コロナウイルス感染症が中国における感染拡大を端緒として世界規模で見られるようになり、中国の責任を問う国際社会の声が高まっている。中国は、こうした国際貢献を通じ自国を取り巻く国際環境の安定化に注力することに加え、同感染症対策にかかる支援を梃子に、戦略的に自らに有利な国際秩序・地域秩序の形成や影響力の拡大を図りつつ、自国の政治・経済上の利益の増進を図っているとの見方もある。

感染拡大を受けて閉鎖された中国湖北省武漢市の海鮮市場【AFP=時事】

感染拡大を受けて閉鎖された中国湖北省武漢市の海鮮市場
【AFP=時事】

このような状況のもと、中国軍においては、東部戦区海軍の年間業務計画を見直す動きがみられるなど軍の活動に関して一定の影響が生じているとの指摘がある一方、軍による同感染症への対応が本格化した以降も、わが国周辺海空域などにおける活動の拡大・活発化の傾向は継続している。

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により国際的な協調・連携が必要な中、東シナ海においては、力を背景とした一方的な現状変更の試みを継続しており、海軍艦艇の恒常的な活動のもと、中国公船が、わが国の抗議にもかかわらず尖閣諸島周辺のわが国領海への侵入を繰り返しており、20(令和2)年5月には、尖閣諸島周辺の領海内で中国公船が日本漁船に接近・追尾する事案が生じた。また、中国機に対する空自の緊急発進回数についても、引き続き高い水準で推移している。南シナ海については、20(令和2)年4月、沖縄本島と宮古島の海域を通過し太平洋に進出した空母「遼寧」を含む艦隊が、バシー海峡を通過し南シナ海に展開し、訓練を実施したとされている。また、同月、中国が南シナ海に設置している海南省三沙市の下に、西沙諸島及びその海域を管轄する西沙区並びに南沙諸島及びその海域を管轄する南沙区を新設することなどについて、中国国務院が承認したと発表されている。このように中国は、軍事にとどまらない手段を用いて、南シナ海をめぐる現状の一方的な現状変更及びその既成事実化を推し進めている。こうした中国の動向は、各国が新型コロナウイルス感染症への対応に注力するなか、周辺国などからの反発を招いている。

米国は、3月中旬以降、国内における感染者数の拡大に対応するため各州やコロンビア特別区などが州兵を動員し、医療品の運搬、防疫及び医療支援などに従事させているほか、連邦軍も病院船の派遣や野外病院の展開などを通じて国内の医療活動を支援している。一方、国防省は、国防省内(米軍含む)における感染者数の拡大を抑えるため、国防省職員の国内外における移動制限やマスクの装着、テレワークの導入及びソーシャルディスタンス(社会的距離)の徹底などさらなる感染の拡大を防ぐための各種措置に取り組んでいる。また、米軍は、各国との軍事交流を通じた感染拡大を防止するために、米韓連合指揮所演習の延期や欧州における米国主導の多国間共同演習の縮小など、各国との共同演習を延期・縮小・中止する措置を講じている。

一方、海外に展開中の米軍部隊、特に海軍艦艇内での感染拡大が報告されており、空母「セオドア・ルーズベルト」の乗組員などの感染が確認された。このような中、エスパー国防長官や米軍高官は、敵対者が、米軍が新型コロナウイルス感染症に対処している機会を利用しようとしているとし、即応態勢の維持の重要性を強調するとともに、米軍全体としての即応性や国家安全保障任務の遂行能力には影響がない旨繰り返し発信している。

北朝鮮は、新型コロナウイルスの感染者は発生していない旨繰り返し発表しているものの、中朝境界などを閉鎖し、国際航空便・列車の停止や外国人・居住者などの行動を制限するなど、感染防止の措置をとっているとされており、経済的な損失を被っている可能性がある。軍の動向に関しては、エイブラムス在韓米軍司令官が20(令和2)年3月、北朝鮮内でも感染者が出ていると確信している旨言及するとともに、軍が約30日間封鎖され、最近になって定例の訓練を再開した旨発言している。北朝鮮は同月、4回にわたって弾道ミサイルなどの発射を繰り返し、ミサイル関連技術や運用能力の向上を図っているとみられるが、新型コロナウイルス感染症の影響などに対し、内部の引き締めを図りつつ、体制の指導力や軍の態勢の維持をアピールすることなどを狙っているとの指摘もある。

韓国は、20(令和2)年2月に鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防部長官が、現時点が戦時に準ずると考え利用可能な全ての資源を投入するよう指示するなど、軍も対応に当たっている。軍は、防疫や輸送などの分野で支援を実施しており、同年3月には対応の迅速化・効率化のために「国防迅速支援団」が編成された。一方、同年2月には全国の野外訓練を全面中止し、野外訓練中の部隊を早期に部隊に復帰するよう指針を通達するなど、影響も生じている。

ロシアは、20(令和2)年2月、自国民などの輸送を実施するため、ロシア航空宇宙軍の航空機を中国に派遣するとともに、同年3月以降、各国への医療支援物資の輸送などの支援活動に従事してきた。ロシア国内においては、軍内に対策本部を設置し、49の衛生・感染症機動グループを新たに組織するなど徹底した感染対策を実施してきたが、同年4月、ロシア国防省は初めて軍内での感染を公表し、その後も感染者は増加している。また、太平洋艦隊が保有する病院船の病床増設や、国内16か所の医療センターの新設など、民間の医療支援を視野に病床数の増設にも取り組んでいる。ロシア軍の活動においては、プーチン大統領が同年5月に予定されていた軍事パレードの年内延期を発表したものの、演習や訓練は通常通り実施されているとみられるほか、対衛星ミサイルの発射試験や地中海上空での米軍機への異常接近など、活発な軍事活動が確認されている。わが国周辺においても、ロシア軍機による近接飛行が継続しているほか、20(令和2)年4月に太平洋艦隊が北方領土周辺海域を含む海域において軍事演習を実施したと伝えられた。

感染が急拡大した欧州各国では、野外病院の設置、医療要員、患者・医療物資などの輸送、軍の医療要員による民間病院の支援など、新型コロナウイルス感染症対策に軍が活用されている。例えば、英国では軍が兵站供給や新たな病院建設の支援を、フランスでは野戦病院での支援や航空機による患者輸送を、ドイツでは重症患者の輸送などの支援を行っている。なお、フランスでは20(令和2)年4月、空母「シャルル・ドゴール」において、乗組員の同ウイルスへの感染が確認されている。

このように、新型コロナウイルス感染症の拡大はグローバルな社会経済活動に大きな影響を与えるにとどまらず、各国の軍事活動に影響を及ぼしており、感染拡大がさらに長期に及んだ場合、各国の軍事態勢にも様々な影響を及ぼす可能性がある。さらに、中国などは、感染が拡大している国々に対する医療専門家の派遣や医療物資の提供を積極的に行うとともに、感染拡大に伴う社会不安や混乱を契機とした偽情報の流布を含む様々な宣伝工作なども行っていると指摘される。新型コロナウイルス感染症の拡大は、自らに有利な国際秩序・地域秩序の形成や影響力の拡大を目指した国家間の戦略的競争をより顕在化させ得ることから、安全保障上の課題として重大な関心をもって注視していく必要がある。