第3章 緊急事態への対応 


隊員の現場の姿 経験から学んだ職務「災害医療」

第3師団司令部医務官室  1等陸曹 茶圓(ちゃいん) 義明

 1995年1月17日兵庫県淡路島を震源とする阪神・淡路大震災が発生しました。現代社会のもろさをまざまざと見せつけられた天災であり、人間の弱さを実感させられた悲劇的な出来事でした。誰もがこのような災害が起きることなど予測することなどできず、ただただ目の前で起きている現実を目のあたりに呆然と見つめるだけであり、とうてい受け入れることなどできませんでした。
 私は、当日の朝のこの世のものとは思えぬ地鳴りで目が覚め、激しい揺れを感じるとともに寝ている家族の上にかぶさり、妻と子供達を守るのが精一杯でした。
 その後家族を車に避難させ妻との会話は「仕事に行ってくる」「えっ、お父さんもう行くの」さぞ心細く、不安を感じ、寂しかったに違いない。しかし、いい格好するわけではないが自分の立場、任務を考えた場合とるべき道は一つであり、自然に出てきた一言でした。
 司令部へ向かう途中普段とさほど変化がなく、状況が今ひとつ把握できませんでしたが、医務官室の室内は書庫、机は移動し、机の上の物はすべて落ち、揺れの大きさを物語っていました。部屋の片付けもままならないまま作戦室を司令部勤務員で開設し、刻々と入ってくる部隊やマスコミからの情報、「本当にこの映像があの神戸か!」と目を疑いたくなる光景ばかりでした。司令部はこの間、関係各機関との連絡及び連絡幹部の派遣準備、師団隷下部隊の現状把握とともに、各市町村の被害状況の把握に努め、並行して災害派遣に関する諸準備等々まるで戦場を思わせるかのような状態でした。医務官と私は、翌日車両で前方指揮所へ向かいました。普段であれば1時間程度で行ける所が約9時間かかり、その光景はまさに空襲でも受けたかのように悲惨な状況でした。前方指揮所に到着してからは、救援物資の搬送や、衛生隊が開設する応急救護所の展開地域として考えられる小学校などとの調整、神戸市内外で使用可能な医療機関の確認など本当にみんなが力を合わせ一生懸命でした。日がたつにつれ負傷者数は増え、前方指揮所からの空輸ばかりでなく、市内の学校など避難現場からの緊急患者空輸も要請されるようになり、私もグランドでヘリの着陸誘導を幾度となく繰り返しました。
 そんなある日、負傷者をヘリに乗せ、次の準備をしているとき一人の職員が話をしてきました。「自衛隊の皆さんも大変ですね、ご家族がおられるでしょう、ご苦労様です。」私はこの一言を聞いて、正直なところ今すぐ帰って家族を「守りたい」という気持ちになりましたが、返した言葉は「はい、自衛官もみんな辛いと思います。でもこれは私達の任務ですから。」でした。
 今回は私自身の貴重な経験から、災害時における医療のあり方、考え方などを実際の現場での出来事を教訓として学んだわけですが、衛生というものは災害などこの様な場面において必要不可欠なものであり、より迅速に現場へ進出し可能な限り多くの人命を救うため、どのような過酷な状況であっても、それぞれの隊員があらゆる困難を克服し任務を完遂しなければならないと思います。
 そのためには常日頃から全隊員が健康状態を良好に維持し、国民の負託にいつでも答えられるよう物心両面を整えておかなければならず、師団司令部において、私がこの健康管理業務の一端を担うことができることを誇りに思います。

 
野外手術システムを使用しての野外訓練中の筆者(昨年9月)


 

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